本文へスキップ

About the Temple

光明寺について

History

慈覚大師の開創と伝わる古刹

光明寺は、亀命山 遍照院(きみょうざん へんじょういん)と号する天台宗の寺院です。

天応元年(781年)の草創と伝わり、天長元年(824年)に慈覚大師(円仁)が開いたとされています。ご本尊には阿弥陀如来をお祀りしています。

光明寺が草創されたころ、このあたりは海に浮かぶ島で、形が亀に似ていたことから「亀島」と呼ばれていたと伝えられます。山号の「亀命山」は、この亀島にちなんだものです。

慈覚大師は比叡山で伝教大師(最澄)のもとで学び、師とともに東国をめぐったのちも、その志を受け継いで東国に教えを広めました。その旅の途中、この地をご縁の深い場所と定めて小さなお堂を建て、自ら彫った阿弥陀如来像をお祀りしたと伝えられています。

慈覚大師の創立 本尊阿弥陀如来台座共一丈四尺 大師の彫刻にかかる

『光明寺由緒』

戦国の世には、たびたび戦火に見舞われて寺が荒れた時期もありましたが、弘治元年(1555年)に慈宏大和尚が寺を立て直しました(中興)。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には弘治元年の「起立」、「開山」慈宏と記されており、弘治元年を慈宏大和尚による中興の年としています。その後、永禄7年(1564年)の国府台の合戦でも被害を受けたとみられますが、第三世の傳榮大和尚があらためて寺を立て直しています(再中興)。

弘治元年ノ起立ニテ、開山、慈宏。弥陀ヲ本尊トス。

『新編武蔵風土記稿』
『新編武蔵風土記稿』巻之二十四の紙面。亀戸村の寺院の記述が縦書きで並び、光明寺の項に色を付けている
『新編武蔵風土記稿』巻之二十四(内務省地理局、明治17年刊)の紙面。色を付けたところが光明寺の項で、「光明寺」の見出しの下から、左隣の列の頭へと続きます(色付けは当サイト)。画像を押すと大きく表示されます。
画像:国立国会図書館デジタルコレクション(コマ111、パブリックドメイン)

元和元年(1615年)には浅草寺と本末関係を結び、幕末まで浅草寺の末寺として歩みました。川に囲まれた亀戸は水害の多い土地で、寛保2年(1742年)や天明6年(1786年)の大洪水ではお堂が大きく傷みましたが、そのつど住職と檀信徒が力を合わせて立て直してきました。寛保の水害のあとには、江戸の町やその周辺で托鉢を行い、亀戸天神の境内で寺宝をご開帳して浄財を募り、十年をかけてお堂を修復しています。元禄のころにお祀りされたとみられる脚気地蔵尊は、「江戸わずらい」と呼ばれた脚気に悩む人々の信仰を集め、文化・文政のころにはお参りの人が絶えなかったといいます。

江戸切絵図「本所絵図」の全体。本所から亀戸までの町や武家屋敷、寺社、村が色分けして描かれ、下のほうの赤い枠の中に「光明寺」がある
江戸時代の終わりごろの地図、江戸切絵図「本所絵図」(尾張屋清七 版、嘉永2〜文久2年〔1849〜1862〕刊)です。下のほうの赤い枠で囲んだところに「光明寺」と記されています(枠は当サイト)。そのすぐ左の「不動院」は、明治7〜8年(1874〜1875年)に光明寺に合わさった寺のひとつです。画像を押すと大きく表示されます。
画像:国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメイン)

昭和20年(1945年)3月の空襲で、光明寺は本堂をはじめとする寺の建物を失いました。慈覚大師の作と伝わる一丈四尺の阿弥陀如来座像も、このとき失われています。翌昭和21年(1946年)には本山の比叡山延暦寺から現在のご本尊をお迎えし、昭和39年(1964年)には脚気地蔵尊の尊像をあらたにお迎えしました。昭和56年(1981年)には本堂・書院・庫裡を順に再建し、今の寺の姿が整えられています。

時代が移り、まちのかたちが幾度も変わっても、人々はこの場所に戻り、墓前で手を合わせ続けてきました。開創の伝えから千二百年という時間は、そうした無数の営みの積み重ねです。

出典:光明寺発行の冊子『光明寺』(「光明寺の歴史」「光明寺略年譜」「光明寺雑記」「光明寺への径」)。『光明寺由緒』『新編武蔵風土記稿』の引用は同冊子に掲載のものです。『新編武蔵風土記稿』の該当箇所は 国立国会図書館デジタルコレクション(巻之二十四「亀戸村」光明寺の項) で閲覧できます(同書の成立は コトバンク「新編武蔵風土記稿」)。出典・参考資料の一覧

Chronicle

年表

右から左へ、横にスクロールしてご覧ください

天応元年
(七八一)
光明寺の草創をこの年とする説がある。
大同三年
(八〇八)
慈覚大師(円仁)が比叡山に登り、伝教大師(最澄)のもとで学ぶ。
弘仁七年
(八一六)
伝教大師が東国をめぐって教えを広め、慈覚大師も同行する。その後も慈覚大師は師の志を継ぎ、たびたび東国を訪れる。
天長元年
(八二四)
このころ慈覚大師が光明寺を開き、自ら刻んだ阿弥陀如来像をお祀りしたと伝えられる。
弘治元年
(一五五五)
慈宏大和尚が寺を立て直す。
永禄七年
(一五六四)
国府台の合戦が起こる。周辺一帯が大きな被害を受け、光明寺も戦火に見舞われる。
天正四年
(一五七六)
傳榮大和尚があらためて寺を立て直す。
天正十八年
(一五九〇)
徳川家康が関八州の領主として江戸に入る。
慶長八年
(一六〇三)
徳川家康が江戸幕府を開く。
元和元年
(一六一五)
幕府が「諸宗諸本山諸法度」を定め、光明寺は浅草寺と本末関係を結ぶ。
元和二年
(一六一六)
周辺に寺院が移ってきて、しだいに寺町が形づくられていく。
寛永五年
(一六二八)
石造宝篋印塔が造立される。
(戦後に移設されたと伝わる)
寛永十七年
(一六四〇)
寺請制度が定まる。
延宝四年
(一六七六)
庚申供養塔が造立される。
元禄年間
(一六八八〜一七〇三)
このころ脚気地蔵尊がお祀りされたとみられる。庶民のあいだで寺社へのお参りが盛んになる。
寛保二年
(一七四二)
八月、大洪水に見舞われ、お堂が大きく傷む。
延享四年
(一七四七)
お堂の修復のため、夏の九十日間、江戸の町とその周辺で托鉢を行う。
宝暦二年
(一七五二)
四月、亀戸天神の境内で歓喜天・十一面観音をご開帳する。九月、お堂の修復が整う。
安永三年
(一七七四)
春、山門を建てる。
天明六年
(一七八六)
七月、ふたたび大洪水に見舞われ、お堂が大きく傷む。
寛政三年
(一七九一)
お堂を修復し、境内を整える。
文化・文政年間
(一八〇四〜一八二九)
脚気地蔵尊が人々の厚い信仰を集め、お参りの人が絶えなかったという。
文化十年
(一八一三)
水盤が奉納される。
(江東区登録文化財)
文久三年
(一八六三)
延命地蔵尊碑が建立される。
(江東区登録文化財)
元治元年
(一八六四)
十二月十五日、浮世絵師・二世 歌川豊国(国貞)が七十九歳で亡くなる。光明寺の墓地に眠る。
明治元年
(一八六八)
江戸幕府が終わり、明治新政府が始まる。神仏分離令が出され、各地に廃仏毀釈の動きが広がる。
明治七〜八年
(一八七四〜一八七五)
宝性院・秀明院・不動院・善竜寺が光明寺に合わさる(合寺)。
明治十年
(一八七七)
十九世 廣俊大和尚が『寺院明細簿』を提出する。
大正五年
(一九一六)
松植紀年之碑が建立される。
(江東区登録文化財)
昭和二十年
(一九四五)
三月の空襲で、本堂をはじめとする寺の建物を失う。
昭和二十一年
(一九四六)
本山の比叡山延暦寺から、ご本尊の阿弥陀如来像をお迎えする。
昭和三十九年
(一九六四)
脚気地蔵尊の尊像をあらたにお迎えし、延命地蔵尊・開運地蔵尊もお祀りする。
昭和五十六年
(一九八一)
本堂・書院・庫裡を順に再建し、現在の寺の姿が整う。歌川豊国(国貞)墓が江東区登録文化財となる。
昭和五十七年
(一九八二)
石造燈籠が江東区登録文化財となる。
昭和五十八年
(一九八三)
庚申塔が江東区登録文化財となる。
昭和六十年
(一九八五)
水盤が江東区登録文化財となる。
昭和六十二年
(一九八七)
石造宝篋印塔が江東区登録文化財となる。
平成二年
(一九九〇)
木造阿弥陀如来坐像が江東区登録文化財となる。
平成七年
(一九九五)
木造十一面観音立像二躯が江東区登録文化財となる。
平成八年
(一九九六)
松植紀年之碑が江東区登録文化財となる。
平成九年
(一九九七)
市場通笑碑・延命地蔵尊碑が江東区登録文化財となる。
令和八年
(二〇二六)
石造宝篋印塔が江東区指定文化財となる。
光明寺年表

出典:光明寺発行の冊子『光明寺』(「光明寺略年譜」、延宝4年の庚申供養塔は「庶民信仰と光明寺」、二世 歌川豊国(国貞)の没年は「光明寺への径」)。石造宝篋印塔の造立・移設は 江東区「石造宝篋印塔 寛永5年在銘」、文化財の在銘年・登録年・指定年は 江東区「文化財・史跡等一覧」 によります。出典・参考資料の一覧

歌川国貞の追善絵。文机に向かう晩年の国貞が描かれ、上部に「本所亀戸村 天台宗 光明寺葬」と記されている

Utagawa Kunisada

この墓地に眠る、
江戸の絵師

歌川国貞は、江戸時代後期の浮世絵師です。初代歌川豊国の門人で、役者絵・美人画を得意とし、最高の人気絵師となりました。のちに師の名を継ぎ、二世 歌川豊国を名乗っています。

ここに掲げたのは、門人・豊原国周が国貞の死を悼んで描いた追善絵です。文机に向かう晩年の姿とともに、「本所亀戸村 天台宗 光明寺葬」「行年七十九歳」と刷られています。国貞がこの寺に葬られたことを、当時の版画そのものが伝えています。

その墓所は、昭和56年(1981年)に江東区の登録文化財となりました。江戸の絵師が眠る墓地に、これからの方が新しくお墓を構える。長い歴史のなかで、光明寺はそうして時代の異なる人々を同じ場所に迎えてきました。

出典:コトバンク「歌川国貞」、光明寺発行の冊子『光明寺』「光明寺への径」、江東区「歌川豊国(国貞)墓」。追善絵の刷り文字:浮世絵文献資料館「死絵年表(未定稿)」。
図版:豊原国周「歌川国貞追善絵」元治元年(1864年)12月/ブルックリン美術館蔵(画像:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

Works

国貞が遺したもの

江戸の人々が手に取り、暮らしのなかで楽しんだ錦絵。その作者が、この墓地に眠っています。

歌川国貞の浮世絵。雪の降るなか、梅の枝の下で遊ぶ女性と子どもたち

歌川国貞「雪の中で遊ぶ女性と子どもたち」

雪の降るなか、梅の枝の下で遊ぶ女性と子どもたち。落款は「香蝶楼国貞画」。

1830年代/ブルックリン美術館蔵(所蔵館の題名 Women and Children Playing in Snow。画像:Wikimedia Commons)/パブリックドメイン

歌川国貞の役者絵。夜の橋のたもとで身構える役者の姿

歌川国貞「歌舞伎役者」

夜の橋のたもとで身構える役者の姿。国貞が得意とした役者絵です。

1858年/ヒューストン美術館蔵(所蔵館の題名 Kabuki Actor。同館の作者表記は「Attributed to Utagawa Kunisada」(国貞作とされる)。Google Arts & Culture、画像:Wikimedia Commons)/パブリックドメイン

歌川国貞の浮世絵。新年の支度に餅つきをする人々を描いた三枚続

歌川国貞「新年の支度(餅つき)」

新年を迎える支度に、餅つきに立ち働く人々を描いた三枚続。江戸の年中行事が伝わります。

19世紀中頃/ヒューストン美術館蔵(所蔵館の題名 Preparations for New Year’s Day (Pounding Mochi)。Google Arts & Culture、画像:Wikimedia Commons)/パブリックドメイン

Precincts

境内のようす

本堂や墓域など、境内のようすを写真でご紹介します。
実際の雰囲気は、ご見学の際にお確かめください。

Cultural Properties

境内の文化財

いずれも江東区の登録文化財で、石造宝篋印塔は令和8年(2026)に区の指定文化財となりました。

石造宝篋印塔

江東区指定文化財

石造宝篋印塔

寛永5年(1628)の造立とされ、区内に残る宝篋印塔のなかでも古い年代のものです。基礎・塔身・笠・相輪の4つからなり、塔身の四面には金剛界四仏をあらわす種子が刻まれています。戦後に今の場所へ移されたと伝わります。

昭和62年(1987)登録、令和8年(2026)区指定石造宝篋印塔の江東区のページ(新しいタブで開きます)

石造燈籠(寛永寺旧蔵)

江東区登録文化財

石造燈籠

溝口宣広が奉納した石の燈籠で、もとは寛永寺にあったものです(寛永寺旧蔵)。

昭和57年(1982)登録石造燈籠の江東区のページ(新しいタブで開きます)

山門の脇に立つ「二世歌川豊國の墓」の石柱

江東区登録文化財

歌川豊国(国貞)墓

幕末を代表する浮世絵師・二世 歌川豊国(国貞)の墓所です。元治元年(1864)に79歳で亡くなり、光明寺の墓地に眠ります。山門の脇には「二世歌川豊國の墓」と刻まれた石柱が立っています。

昭和56年(1981)登録歌川豊国(国貞)墓の江東区のページ(新しいタブで開きます)

市場通笑碑

江東区登録文化財

市場通笑碑

江戸時代後期の黄表紙作者・市場通笑(通称 小倉屋小平次)の碑です。光明寺第20世住職 廣慶の親戚筋にあたることから、大正期ごろに建てられたといわれます。昭和20年(1945)の空襲で火を受け、欠けやひび割れが残っています。

平成9年(1997)登録市場通笑碑の江東区のページ(新しいタブで開きます)

延命地蔵尊碑

江東区登録文化財

延命地蔵尊碑

文久3年(1863)の銘が刻まれた碑です。

平成9年(1997)登録延命地蔵尊碑の江東区のページ(新しいタブで開きます)

庚申塔

江東区登録文化財

庚申塔

延宝4年(1676)に造立された庚申供養塔で、地蔵堂の前に安置されています。舟型の石塔に「庚申」の文字と、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が刻まれています。

昭和58年(1983)登録庚申塔の江東区のページ(新しいタブで開きます)

「奉納」と刻まれた水盤

江東区登録文化財

水盤

文化10年(1813)の銘がある水盤で、「奉納」の文字が刻まれています。

昭和60年(1985)登録水盤の江東区のページ(新しいタブで開きます)

松植紀年之碑

江東区登録文化財

松植紀年之碑

大正5年(1916)の銘が刻まれた碑です。

平成8年(1996)登録松植紀年之碑の江東区のページ(新しいタブで開きます)

木造阿弥陀如来坐像

江東区登録文化財

木造阿弥陀如来坐像

木造の阿弥陀如来の坐像です。

平成2年(1990)登録木造阿弥陀如来坐像の江東区のページ(新しいタブで開きます)

木造十一面観音立像

江東区登録文化財

木造十一面観音立像

木造の十一面観音の立像で、二躯(2体)が登録されています。

平成7年(1995)登録木造十一面観音立像の江東区のページ(新しいタブで開きます)

出典:江東区「文化財・史跡等一覧」と各文化財のページ、光明寺発行の冊子『光明寺』(「光明寺略年譜」「庶民信仰と光明寺」)。各カードの「江東区のページ」から、江東区の該当ページを開けます。

Overview

寺院概要

寺号亀命山 遍照院 光明寺(きみょうざん へんじょういん こうみょうじ)
宗派天台宗
本尊阿弥陀如来
草創天応元年(781年)と伝えられる
開創天長元年(824年)、慈覚大師(円仁)が開いたと伝えられる
中興弘治元年(1555年)、慈宏大和尚
霊場新葛西三十三所観音霊場 第13番札所
所在地〒136-0071 東京都江東区亀戸3-42-1
交通JR中央・総武線/東武亀戸線「亀戸」駅より徒歩約13分(約0.7km)、東武亀戸線「小村井」駅より徒歩圏

出典:光明寺発行の冊子『光明寺』(山号・院号の読み、草創・開創・中興)。出典・参考資料の一覧

Sources

出典・参考資料

寺の由緒・年表

境内の文化財

二世 歌川豊国(国貞)

図版

電話で相談 9:00〜18:00 資料請求・見学予約 無料・24時間受付